Athlete # 08
太極拳
荒谷 友碩
昨年の「世界武術選手権大会」男子太極剣の部で10年ぶりの快挙を果たす
滑らかに四肢を動かし、ひらりと宙にジャンプ。手にした剣は、しなやかに優美に動く。飛んだ後の着地音など、きっと皆無であろうと思わせる荒谷友碩(あらや ともひろ)の太極拳の技だ。2017年にロシアで開催された「第14回世界武術選手権大会」男子太極剣の部において金メダルに輝いた荒谷は、同時に男子太極拳の部で銅メダルも獲得した。太極剣で日本が優勝したのは実に10年ぶりの快挙であった。
太極拳とは、中国武術(国際的には「武術(ウーシュー)」で名が通っている)の中の1種目である。日本では健康法として普及した太極拳と、武術競技種目である太極拳を区別するため、競技としての太極拳と各種の中国武術「中国拳法」を総称して「武術太極拳」と呼んでいる。太極拳の競技種目には、拳だけを使う武術を演じる「太極拳」と、剣を用いて演じる「太極剣」があり、太極拳選手はそのどちらにもエントリーできる。
幼い頃に惹かれた太極拳。初の世界挑戦での屈辱が自分を変えた
武術太極拳との出会いは、兄が通っていた武術・長拳の道場に母に連れられて行ったことに始まる。兄の姿を見て「かっこいい」と密かに憧れた荒谷は、小学1年生の冬から兄と一緒に長拳を習うことに。しかし、激しいスピードが魅力の長拳より、ゆっくりとした技の中に優雅さを感じる太極拳に惹かれすぐに転向、メキメキと頭角を現していく。
中学1年生の冬にジュニア強化合宿に初参加し、中学3年生のときには日本代表選手の選考会に呼ばれた。ところが、自他共に認めるライバルが代表に選ばれ、自身は惜しくも落選。そのときの悔しさをバネに練習に励み、翌年、高校1年生で日本代表に選出された。
こうして初めて世界の舞台に立った荒谷は、ジュニアの世界大会で太極拳3位、太極剣4位と栄誉ある成績を残した。しかし、本人は納得がいかなかったという。「このとき、太極剣で1位の中国人選手が太極拳の競技を辞退したため、金メダル最有力候補選手が抜けての勝負となりました。もし、その選手が出場していたら僕は太極拳で4位だったかもしれない。僕の中では『繰り上げ3位』という考えが拭い去れませんでした。だから、とても悔しかったです」
中学生時代から世界が射程距離にあった荒谷だが、本人はそれほど意識していなかったとか。魅了された太極拳の技を磨き、太極拳をもっと知りたいという思いから自然とのめり込んでいったというのが本音のようだ。しかし、初の世界大会で体験した屈辱は彼の心を大きく動かした。
「あの大会を境に、世界を強く意識するようになりました。もともと太極拳は一生続けるつもりでいましたが、競技の太極拳選手としての寿命には限りがあります。脚や膝に負担のかかる技もあるので、選手としては30歳前後まででしょうか。限りある時間の中で、自分が納得のいく演武で正々堂々と金メダルを獲りたい。あの大会以前は『太極拳以外の他の職業に就こうかな』と考えていたのですが、それもなくなりました」
立ちはだかる中国・香港の高い壁。支援体制や競技環境の差が浮き彫りに
その後、荒谷は着実に世界一への階段を上っていく。2015年11月には「第13回世界武術選手権大会」2種目で銀メダル、2016年9月「第9回アジア武術選手権大会」に日本代表として出場し、男子太極剣の部で準優勝。さらに、同年11月「第1回武術套路ワールドカップ大会」男子太極剣の部で金メダル、男子太極拳の部で銅メダルを獲得し、そして、2017年の「第14回世界武術選手権大会」男子太極剣の部で優勝した。優勝の要因を荒谷はこう分析している。
「僕は、曲に合わせて技を『演じる』という観点から見れば『派手さ』は少ない選手だと思っています。その点では、外国人選手の方が秀でていて、彼らにはアピール力があります。ですが、太極拳はもともと武術として一つ一つの型と動きが生み出されたものです。競技で演じる型と動きにはそれぞれ意味があり、それらを踏まえつつ、美しい表現のために動きをアレンジ可能とする境界をどこに引くかが重要だと考えています。そうした判断に基づいた演武が評価されたのではないでしょうか」
しかし、頂点に立ったからといって気は抜けない。中国と香港の安定的な強さは本場ならではのようだ。「中国では政府からの支援もあり、幼い頃から武術の学校で毎日練習できる環境です。それに、太極拳の根底を流れる陰陽五行論思想が生活に根ざしているので、型や動きに対する哲学的な理解度も深いと感じています」と荒谷は指摘する。また、中国や香港のみならず、韓国やアジアの国では日本と違ってプロ選手が存在し、実力次第では生計が成り立つ。総合的に考えて、モチベーションを維持しやすいであろうことは想像に難くない。荒谷は言葉を選びながら話を続けた。
「日本人選手が中国人選手の動作を真似している現状では、中国人との差を感じざるを得ないですね。その領域を越えて、自分の技を『自分のものにする』にはどうしたら良いのか、考える必要があります」
奥が深い太極拳。“演じる武術”としての素晴らしさを伝えたい
武術太極拳の国際大会は「世界武術選手権大会」の他に、2016年から始まった「武術套路ワールドカップ大会」、そして武術の最大の祭典である「アジア競技大会」がある。他にも、国際オリンピック委員会主催で「ユース五輪」が挙行されるなど、武術太極拳はアジアを中心にさらに発展・定着していくことだろう。日本での武術太極拳の認知度も、さらに高まる可能性を秘めている。荒谷の今後の目標を教えてもらった。
「目標は、国際大会で2種目同時優勝です。国際大会は、日本代表に選ばれないと出場できません。今年、『アジア競技大会』の日本代表に選出されました。これからも継続して日本代表になれるように、今後も国内大会で結果を出し続けていきます。目指しているのは、お客さんに感動してもらえるような演武です。曲と調和した身体の使い方や、生きているかのような剣のしなやかさ。“演じる武術”としての素晴らしさを伝えていきたいですね」
そして、太極拳への想いも語ってくれた。
「太極拳は、本当に奥が深いです。例えば、どんなに筋力のある男性でも、老齢の大家に上から腕を抑えられると跳ねのけることができません。これは、力ずくではなく、気の流れを制しているからなんです。僕はまだまだそのような境地に至っていませんが、練習をすればするほど発見があり『これでOK』という極みがありません」
そんな荒谷に、多くのアスリートが体験するような、いわゆる「ゾーン」に入った経験はあるのか聞いてみると「ありますね。5、6回くらいですが」と少し遠慮気味に答えが返ってきた。そのときのことを詳しく話してもらった。
「大会でいつも心がけていることは、緊張せずに身体の力を抜くのと同時に、ほどよい緊張感は残すこと。こう話すと矛盾しているように聞こえますが、平常心に加えて心地良い緊張感を持つ感じです。ゾーンに入ったときはそれが絶妙で、周りのすべてがまるで止まっているかのようでした。そして何より、自分の頭で想像した通りに身体が動くんです。本当に気持ち良かったですね」
終始落ち着いた雰囲気で話をしていた荒谷の瞳がキラキラと輝きを増した。体験した者にしか得られない境地なのだろう。日本人が2種目で金メダルを獲得できる日はそう遠くはない、と感じさせた荒谷友碩。武術太極拳の歴史がひっくりかえる快挙を彼は成し遂げるかもしれない、そんな期待を胸に抱いた。
文=佐藤美の