不遇を乗り越え、究極の夢である「世界一」へ挑み続ける



ケガと、“30位”の壁



アルペンレーサー石井智也選手

そんな停滞の大きな要因としては、3度に渡る負傷があげられる。大学1年の秋に右膝の前十字靭帯を断裂。リハビリにほぼ1年をかけて復帰はしたものの、その翌年今度は深刻な椎間板ヘルニアを発症して、またまた足踏みを余儀なくされた。

「今思うと、膝を傷めたことの影響が腰に出たのでしょう。僕自身、当時はまだまだ身体のケアへの意識は低かったと思います。膝はともかく、ヘルニアはつらかったですね。いつ治るかわからない不安が大きく、痛みで眠れないし、まともな姿勢では食事もとれませんでしたから」と石井は振り返る。

それでも彼は懸命に食らいつき、分厚くそびえ立つ世界への壁を崩そうとした。ワールドカップでは1本目で30位以内に入らないと2本目を滑ることができない。31位以下では記録にさえ残らず、実質的には予選落ちと同じことである。したがって30位というラインが多くの選手にとってクリアすべき最初の目標となる。

2015年の12月、石井はワールドカップのジャイアント・スラロームで1本目31位となった。30位の選手との差は100分の1秒。47番という不利なスタート順から果敢なアタックをかけたものの、スキーブーツ半足分ほどのわずかな差で2本目に進むことができなかった。

さらに翌日のスラロームでも健闘。ふたつめの中間計時地点を24位のタイムで通過したのだ。そのまま行けば初の2本目進出は間違いなかったが、ゴール前でコースアウトという痛恨のミスを犯し、2日連続での無念のレースとなった。彼の滑りがワールドカップでも充分に通用することをはっきりと示したものの、しかし結果として記録を残すことができなかった。その冬、石井はワールドカップ6レースに出場したが、いずれも30位の壁の前に破れた。

ナショナルチームから外れても挑戦は続く



アルペンレーサー石井智也選手

日本の中ではつねに先頭を走り続けてきた石井だが、ここ数年はナショナルチームから外れ、自分の力でレースを戦う厳しい環境だ。潤沢とはいえない全日本スキー連盟の強化資金をより効率的に投資するには、彼のようなベテランよりも、将来の成長を期待できる若い世代により厚く割り振らざるをえない。ほぼ同じ力を持つ選手がふたりいたとすれば、若い選手が優遇されるのは当然とも言えるだろう。

世界をめざし、アルペンスキーの本場ヨーロッパで戦うには、ナショナルチームのメンバーか否かは大きな違いがある。資金面ではもちろんだが、ワールドカップ出場のチャンスにおいてもその差は大きく、チームから外れプライベートで戦うには、さまざまな面で厳しい環境を余儀なくされるのだ。だが、石井はそれでもあくまでヨーロッパを拠点に戦うことにこだわった。国内やアジアでのレースでポイントを稼ぎ、ふたたびヨーロッパに戻ってくるのが現実的な戦略だが、あえて厳しい環境に身を置く道を選んだ。

「アルペンレースは、その名の通り、ヨーロッパのアルプス諸国でもっとも盛んなスポーツです。ヨーロッパで結果を出してはじめてアルペンレーサーとして評価され、胸を張ることができると僕は思っています。幸い、チームを外れた頃に良い仲間たちと巡り合うことができました。彼らを信じて、自分の力を信じてヨーロッパを舞台に戦っています」

彼の言う“良い仲間”とは、WRA(ワールド・レーシング・アカデミー)というチームのことである。イタリア北部、オーストリアと国境を接する南チロルと呼ばれる地域を本拠地とするインデペンデントなチームで、東欧などナショナルチームが充分に機能していない国の選手や、ナショナルチームから外れたものの、チーム復帰やワールドカップで戦うことをめざす選手が集まり、ひとつのチームとして活動している。

メンバーはシーズンの活動費をWRAに払い、チームとしてトレーニングを行ないながらレースを転戦する。選手の国籍は異なるが、実質的にはナショナルチームに準じたレース環境が得られるのだ。このようなチームは他にもいくつかあるが、WRAはそのなかでもっとも成功している例と言えるだろう。

石井はナショナルチームから外れたことをきっかけにWRAに加わり、レースを戦っている。ワールドカップへの出場機会は限られるが、その下に位置するヨーロッパカップやFISレースといったカテゴリーで競い合う。そしてチャンスがあれば、ワールドカップにもスポット参戦する。

「コーチは二人いて、親子なんです。僕には息子のマルティンというコーチが付いていてくれています。とても情熱的なコーチで、いつでも、どんなときでも「トモヤならば絶対にできる」といって強くプッシュしてくれる心強い存在です。年齢は僕よりも若いんですけどね(笑)」

初のオリンピック、そして2022北京へ



アルペンレーサー石井智也選手

2016年の12月、石井はジャイアント・スラロームのレース中に激しくクラッシュ。左膝の前十字靭帯と外側側副靭帯をともに断裂するという重傷を負った。この頃、彼は最高に調子がよく、勝ちに行ったレースでのアクシデント。それだけにショックは大きく、ケガには慣れているはずの彼も、しばらくは気持ちもふさぎがちだった。

しかし手術を終え、リハビリを開始する頃、チームの皆から激励のメッセージが届いた。転倒が激しかったぶん、前回の靭帯断裂よりも痛みは激しかったが、そのメッセージのひとつひとつが心に響き、苦しいリハビリに立ち向かう強い原動力になったという。

3度めとなるその大ケガから1年足らずで、石井はレースに復帰した。負傷明けとあって、慎重な準備を重ねて雪の上に戻り、そして平昌オリンピックへの出場権をつかんだ。選考レースとして行なわれた全日本選手権のジャイアント・スラロームで優勝したのだ。2位に1秒61もの差をつけた圧勝といってよいだろう。もちろん彼自身初の五輪出場だし、かもい岳レーシングからも初めて誕生したオリンピック選手だ。だが、意外にも彼は淡々とした表情でこう語る。

「全日本やオリンピックだけでなく、僕にとってはすべてのレースが大事だったので、オリンピック出場を決めたこと自体に特別の感慨はありませんでした。ただ結果的に勝つことができて、周囲の人たちがものすごく喜んでくれた。それは素直に嬉しいと感じました」

オリンピックに出ることは、もちろん名誉なことだが、そこが彼にとっての最終的な目標ではない。現在の力では、よほどのことがなければメダル争いに絡むことはないだろう。だとすれば、オリンピックに出られただけで、喜ぶわけにはいかない、というのが石井の本音なのだと推測できる。

石井の平昌オリンピックは、ジャイアント・スラローム30位という結果を残して終わった。もちろんその数字には少しも満足していない。だから4年後の次期北京オリンピックに向けての戦いはすでに始まっているのだ。

アルペンレーサー石井智也選手

「年齢的にも、もう若くはないし、アルペンスキーは結果を出さなければ競技を続けていくことが難しいスポーツ。ですから、僕にとっては1レース1レースを悔いのないように戦うことが何よりも大事だと考えています。極端に言えば、これが最後だと思って、目の前のレースを戦っているんです。それを続けていけば、その先に僕の究極の夢である世界一という目標が見えてくると信じています」

そう語る石井の口調は、あくまでも淡々としている。辛いときにも、苦しいときにも、もちろん嬉しいときにも、彼はそうした感情をぐっと飲み込み、腹に力を込めて前に出る。一歩の歩幅は小さいかもしれないが、けっして歩みを止めないのが彼の真骨頂。愚直なまでにひたむきな彼の姿を見ていると、いつか不可能を可能にしてしまうのではないかと思えてならない。

文・写真=田草川嘉雄
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スキー/Skiing

アスリート名

石井 智也

競技名:アルペンスキー

生年月日:1989年5月23日

出身地:北海道

身長・体重:173cm・73kg

競技名:アルペンスキー

生年月日:1989年5月23日

出身地:北海道

身長・体重:173cm・73kg

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